ディボットを埋めながら

中部銀治郎氏のコースレコード

日光カンツリー倶楽部での公式競技第1回は、昭和40年5月18日から21日まで行われた第2回アジア・アマチュア・チーム選手権である。日本、フィリピン、パキスタン、台湾、韓国の5ヶ国が参加し、日本チームは、キャプテン細川護貞氏、選手は、三上正彦、中部銀次郎、寺本昭洋、広瀬義兼の5名。見事、2位の台湾に14ストロークの差をつけ876ストロークで日本チームが優勝した。

さて、この大会の第3ラウンドで中部銀次郎氏が、アウト34・イン35、トータル69のコースレコードを記録。オールドコース(開場当時の ままのコース設定で、トータル6900ヤードであった)の記録として今も残されている。 また、この時に13番ロングホール(当時は500ヤードであった)で、スプーンで打ったセカンドがグリーンオンし、イーグルを奪っており、4日間トータル290ストロークで個人第1位の成績を残している。 後年、日本アマ開催前に日光カンツリーを訪れた中部氏(平成13年12月死去)に聞くと、イーグルのことは記憶に残っていなかったそうである。ただし、ラフを歩く時、芝が靴にかかることで、以前より足が上がらなくなったのだなとおっしゃっていたのが印象に残る言葉であった。 (合掌)コースレコードについては、昭和39年に田中潔氏が73でコ—スレコードをつくり、翌年中部氏が69で記録を塗り変えている。

その後昭和43年日本ゴルフ協会によるコースレートの再査定があり、その後コースの延長、改造が行われ、昭和44年、星堯氏が73、ついで46年に金沢良信氏が72、昭和57年に佐藤昌弘氏が69と会員による記録更新が続いたが、平成8年日本アマ選手権の第一日目、星野英正氏が67というコースレコードを達成。当時、東北福祉大一年生の星野選手は、9アンダーという記録で2位に15打差をつけ日本アマに優勝。現在は、プロの中でも注目される選手として活躍している。

 


翁を偲ぶ秋天下

日光カンツリー倶楽部の秋のカップ競技が加藤メモリアル杯だけなのは、絶好のゴルフシーズンなのにもったいないという声もあるが、この加藤メモリアル杯には、大きな意味が込められている。 日光カンツリー倶楽部開設の糸口を創り、多大な尽力を賜った、栃木県出身の財界の重鎮加藤武男氏は、開場10周年を待たず、昭和38年10月、彼岸へと旅立たれた。もちろん、当時より、加藤氏に対する敬意を表し、加藤杯も行われていたが、加藤氏逝去の後、加藤家より、メモリアルカップを寄贈したいという申し出があった。当時常務理事であった初代キャプテン杉田寧氏らは、加藤翁の豊かな教養と重厚な風格にふさわしいものをと考え、銀製品では世界的な評価を得ていた、イギリスの老舗マッピン・ウェブ社のスターリングシルバー製のものをとお願いし、快諾を得たものである。さて、どうやって、マッピン・ウェブ社に依頼するかについては、当時渡英中であった可児孝夫氏と外遊中の高瀬傅氏に依頼し、ご協力を願ったものである。


加藤武男氏を偲び、その偉業を称えつつ行われる加藤メモリアル杯はそのカップにも、先達の豊かな教養と高い志が込められている。その頃の日本製のカップとはひと味もふた味も違う繊細にして大胆な発想にあふれた、加藤メモリアルカップは、秋の空の下、ゴルファーとしての矜持を問うにふさわしいカップと言えるだろう。
日光カンツリー倶楽部の基を築いた加藤武男氏のメモリアル競技が秋に、また、加藤氏と並ぶ倶楽部創設の大恩人小平重吉氏(初代民選元栃木県知事)を偲ぶ小平杯が春に行われるのも、日光カンツリー倶楽部ならではのことではないだろうか。
歴史と伝統を、そして、先達の想いを忘れることなきよう、倶楽部のあり方を問い続けるこの2大競技は、まさに日光カンツリー倶楽部のスピリットであり、加藤メモリアルのカップはその証と言えるに違いない。

開場を待たずして旅立った初代理事長

日光カンツリーのラウンジに飾られている、初代理事長島田善介氏の写真は、なぜか、昭和28年、川奈ホテルにて開かれた日本ゴルフ協会理事会のものである。と言うのも、島田氏はその翌年体調をくずし、入院。昭和30年4月の開場を待たずして亡くなられたからである。

島田善介氏は明治21年10月、栃木県塩谷郡氏家村の裕福な油商福田家の三男として生まれ慶応義塾普通部(中学校)に進学。44年、大学を卒業するまでの10年間、進取闊達の心意気に充ちた若者たちと青春を謳歌し、洋風最新の気風を身につけていった。 善介氏は、在学中野球部に所属、強肩の内野手、捕手、投手として、部史に残る活躍をし、とりわけ、明治44年の慶応野球部によるアメリカ横断遠征への参加は、草創期の日本の野球界に大きな一歩を標したものと後世にその名を残している。

大学卒業後、大日本精糖に入社、さらに、自身で事業を起こすが、大正7年、油商の老舗島田新介商店の娘、建子と結婚し島田善介と改名する。そして、日本学生野球協会の副会長として学生野球の発展に多大な貢献を果しつつ、そのスポーツに対する情熱と博識により昭和8年相模カンツリー倶楽部開場と同時に理事に、キャプテンを経て昭和25年には理事長に就任する。

昭和27年、日光カンツリー倶楽部開場に向けて「日光ゴルフ場建設委員会」が設立されると、地元出身であり、そのゴルフ界への影響力や人脈・見識から、委員長に請われ、相模カンツリー理事長を辞し、就任。コース設計家として、相模カンツリーの改造を手がけた名匠井上誠一氏を迎える。

しかし、ゴルフ場候補地は、どこも井上誠一氏の眼鏡に合わず難航する中、島田氏は井上氏を大谷川沿いの荒蕪地へ案内する。

二人でつぶさに現地を歩き回った結果、井上誠一氏は、リバーサイドコースとしての大いなる可能性を発見。建設委員会に報告するとともに測量区域の決定を見たのである。

昭和30年1月9日、開場前に、発起人委員会を開き、病床にある島田善介氏の功績を称え、初代理事長に選任するが、同年4月の開場を待たずして、1月29日、氏は日光カンツリーの誕生に心を馳せながら永い旅に立った。唯一の思い出は、病に倒れる前、8番ホールでの試打であり、その力強いスウィング写真の後姿が日光カンツリーに残されている。


 二人のキャプテン

 開場間もない頃、当時競技委員長であった杉田寧さんと、第4代キャプテンの高橋利之さんが、倶楽部選手権でマッチプレーで出逢わせた時のことである。「高橋君、君は、まだ、学生だ。毎日のようにゴルフに専念できる。勢いもある。 しかし、今、ゴルフが強いからと言って、何でもかんでもと言うのはいかん。君には将来がある。たっぷりと時間もある。倶楽部選手権は、しばらく遠慮してはどうか」。その言葉に高橋さんは驚きと同時に、学生のゴルフとは違う、クラブライフのあり方やメンバー同士の先輩に対する敬愛と尊敬の念の持ちようを教えられたと感じ、「はい、どうもありがとうございます」と答え、胸にしまい込んだ。
そして、何度も男体山は雪に包まれ、春が来た。火難、水難を乗り越え、復旧工事も一段落した昭和37年。コースの芝も緑に萌える6月、倶楽部選手権が開催された。奇しくも、杉田寧さんと高橋利之さんが対戦することとなった。16番ホールアップドーミーとした杉田さん、17番も獲って、勝ちが決まったかの時、自分のボールをピックアップして、「僕の負けだ。16番で棄権だ。高橋君、倶楽部選手権は、ずい分待たせてしまった。思いきって戦って優勝してください」そう言って高橋さんの手を握った。心の隅には残っていたことではあったが、10年近くも前のことを憶えていてこういう形で返してくれる杉田さんに、高橋さんは、本物のフェアプレーに接したと感じ、二つの意味を込めて「ありがとうございます」と答え、次の戦いに臨んだ。
そして、その後、昭和41年、杉田さんは初代キャプテンに就任する。また、高橋さんも、各委員長の要職を経て、平成2年キャプテンとなった。この二人のキャプテンのエピソードは、秘められたまま、今日まで語られることがなかったのも、二人のお人柄とともに、キャプテンシーの重要性を表していると言えるだろう。杉田さんが高橋さんに「長い間待たせたな」と言った言葉。そして、その言葉から、勝負だけではないジェントルマンシップを受け取った高橋さん。まさに、キャプテンシー、ここにありということではないだろうか。この昭和37年の会報に杉田さんは、倶楽部内の秩序、人格、フェアプレーの大切さを説かれている。
昨今、日本のゴルフ界では、ゴルフが上手であれば偉いという風潮が過剰に見受けられるが、いやいや、ゴルフスピリットの本質は同じこと。尊敬と公平さと正直さと礼儀正しさにある。勝ち負けに執着し過ぎることなくゴルフスピリットを重んじてこそ真のゴルファー。ゴルフ技術研究もさることながら、この二人のキャプテンのエピソードをよく噛みしめて欲しい。すべてのメンバーが心のフェアプレーこそ、日光カンツリー倶楽部のメンバーシップの根幹をなすものであることを改めて自覚し、目指したいものである。

小平杯を重ねつつ

「おだいら?」「こだいら?」 小平杯予選前日の夜、ロッジ泊まりの顔見知り4人が食事に出かけた時のこと。ラウンド後の練習で火照る体を生ビールで冷やしながら、「え〜っ、おだいらじゃないんですか。でも、けっこうみんな、おだいらはいって読んでますよ」と若い2人。

戦後復興の槌音がそこここで響く昭和27年7月19日。こごめ柳の緑が美しい夏の光にきらめいていた頃。栃木県初の民選知事、小平重吉栃木県知事と落合村(現今市市)出身で三菱銀行の頭取も務めた財界の重鎮、加藤武男氏は、金谷ホテルの一室にて、日光ゴルフ倶楽部設立の基本要綱について具体的な話し合いを持った。

その、小平知事の尽力を記念して行われるのが、春一番の倶楽部競技小平杯=こだいらはいである。日光あたりでは、小平と書いて、こだいらと呼んだり、おだいらと呼んだりするため、いつの間にか呼称に乱れが生じたのではあろうが、そもそも、小平杯は何故あるのか。誰のことなのか。この競技の趣旨が伝わっていないことは、ゴルフに例えればマナー違反にも等しいのではなかろうか。

雄大な男体山と麗しい女峰山を望み、敷地内高低差55メートルを活かし、全コースにわたり、2%の微妙な勾配を名匠井上誠一氏が創り出すことのできた、この大谷川沿いの荒蕪地を県が払い下げ、土木工事に関しては、当時の県土木部長であった光藤康明氏の多大な尽力も、小平知事なくしてはありえなかったことと言えるだろう。

もちろん、この日光会談に至る前、加藤恭平氏(高根沢町出身、第2代キャプテン)、杉田寧氏(初代キャプテン)、加藤次郎氏(加藤武男氏の次男)の3氏の県及び加藤武男氏への働きかけ。また、会談後の、県出身で財界に名をなした島田善介氏(初代理事長)、地元の名士であり島田氏と慶応義塾以来の旧友、高橋弥次右衛門氏、加藤武男氏の三菱銀行後輩となる古川尚彦氏(第2代理事長)、日光国立公園観光(株)社長金谷正夫氏、堤武雄副知事、千家県観光課長らによる目覚しい働きによって、日光ゴルフ倶楽部は設立されたのである。

こごめ柳に若葉つく季節。日光の大いなる発展を夢見つつ、ゴルフという競技の持つ懐の深さ、老若男女にかかわらず楽しめる幅広さに大いなる理解を示してくれた小平重吉氏のことなど語りつつ、小平杯の数々の優勝者たちと先達の心意気など偲びたいものである。


ひたすら日光発展を思い続けた初代社長

ご存じのことと思うが、日光CCには一般社団法人日光カンツリー倶楽部と日光ゴルフ株式会社があり、日光ゴルフ株式会社の株主が、一般社団法人日光カンツリー倶楽部の会員資格を持つというシステムになっている。

さて、この日光ゴルフ株式会社初代社長、高橋彌次右衛門氏は、なぜかあまりゴルフに興じられなかった。本が好き、しかも英語の原書が好きで晴読雨読。たまに日光カンツリーでYシャツの腕まくりで球を打つことがあるくらいという方であった。高橋彌次右衛門氏は、落合村(旧今市市)の造り醤油家に生まれた。

高橋彌次右衛門商店は寛永の頃、穀物商として始まり、日光ゴルフ初代社長は12代目に当たる。由緒ある素封家の跡継ぎとして、慶応義塾(現・慶応大学)に学ぶ。その時友人として永い付き合いとなったのが初代理事長島田善介氏である。成績優秀な高橋彌次右衛門氏と学生野球の花形である島田善介氏、同郷のよしみ、グングンと親交を深めていった。高橋彌次右衛門氏は慶応義塾を卒業に当り、三菱グループの総帥岩崎氏に将来の相談に行くと「君は、昔から続いた立派な家がある。やたら就職などせずに地元に帰り、地元のために働いてはどうか」と言われ、12代目高橋彌次右衛門商店を継いだのである。

昭和27年、地元出身三菱グループの大番頭加藤武男氏と栃木県知事小平重吉氏の金谷ホテル会談において日光のゴルフ場建設の話が具体化すると、資金面、会社運営面において、その任を加藤武男氏と島田善介氏から託された高橋彌次右衛門氏は、ゴルフそのものにさほど興味がないにもかかわらず、旧今市市と同数の15株を引き受け、昭和28年、東京丸の内ホテルにて開催された発起人会で総代に選出された。そして、日光ゴルフ株式会社初代社長、日光カンツリー倶楽部監事に就任。ゴルフコース建設を見守り、練習場にも足を運んだ。それもすべて地元発展を念じてのことであった。温厚な人柄ながら、一徹に大先輩、岩崎氏、加藤武男氏、親友島田善助氏との約束を守り、92歳でその生涯を閉じるまで地元振興に心を砕いた。

「英語を話せるのは、当時地元では祖父だけで、外国人が来るとよく出かけていきました。島田さんが私の家に寄って、当時慶応高校に学んでいた私と一緒に上京し、ゴルフを始めろと勧めてくれたことを祖父に話したのが、私のゴルフ人生の始まりです」。そう語ってくれるのは現キャプテン高橋利之氏である。


ゴルフ創世記とともに歩いた初代プロ

日光カンツリー倶楽部初代プロ、その名は、鳥羽正行。横浜の生まれである。少年の頃心臓弁膜症を患った鳥羽は、親戚のいた保土ヶ谷に移った。保土ヶ谷での養生の日々、散歩の途中で12才の鳥羽の心を捉えたのは、程ヶ谷カントリーで早朝練習をするキャディたちの打つ白球の美しい弾道であった。彼は、人づてに程ヶ谷カントリー倶楽部のキャディとして入社。ひたすらゴルフに打ち込んだ。
昭和30年、所属プロの浅見緑蔵が兵役のため入隊することになり、当時倶楽部のお目付け役であった赤星四郎は鳥羽に、「うちのプロにならないか」と白羽の矢を立てられ、プロ鳥羽正行が誕生した。時に昭和4年、鳥羽15才の春、3月であった。そして、鳥羽は、昭和6年、新設された相模カンツリークラブに移る。当時トッププロであった中村寅吉らと日本オープンや日本選手権に出場し、順調なプロ生活を送っていた鳥羽の人生に大きな転機が訪れる。第二次世界大戦である。鳥羽のもとへも召集令状が届き、中国へと出兵していった。そして、戦後、日本に戻った鳥羽は富士重工に勤め、新たなる人生を歩き始めた。
しかし、人生とは不思議なものである。プロをやめた筈の鳥羽のもとへ「栃木県日光市にできた日光カンツリー倶楽部でプロとしてやってみないか」と富士重工のゴルフ好きの役員から声がかかった。
昭和30年、日光カンツリー倶楽部は、しっかりとしたゴルフコースの基盤を固めようと、日光カンツリーによく来場していた、その役員に相談したのだった。鳥羽は、一度は足を洗ったゴルフの生活ではあったが、やはり、青空に舞う白球の魅力にひかれ、日光カンツリーへやって来る。練習場が出来たばかりの日光で、鳥羽は会員たちにゴルフを教えた。
鳥羽は、あまり、口数多くなく、要点を一点か二点教え、自分のスウィングを見せたという。昔気質の職人のように、見て盗めという教え方だった。しかし、その一方で、現キャプテンの高橋利之氏らが慶応のグリーンクラブ(ゴルフ部)の仲間と合宿を張ったり、友人らと練習ラウンドを行っている時には、必ずのように、レッスンをしてくれたという。そして、試合に出掛けると、宿泊の宿で、応援に来てくれた会員と実によく飲んだそうである。鳥羽はまさに、日本の男であった。厳しく、しかし、口には出さない優しさと男気と。日光カンツリーの初期メンバーは、この気概とともに育ったとも言えるだろう。晩年も時折練習場に姿を見せ古い会員にレッスンをしていた。日光カンツリーの初代プロはゴルフを愛する心も教え、平成15年4月向う岸へ渡った。(男体子)